虹の身

·一元思想の象徴としての虹


  虹と仏教思想について考えてみたいと思います。 多様性の中の統一?統合という虹の性質は、まさに、釈迦の縁起の法が説く世界のありさまそのものです。 縁起の法が説くところは、人は、虹を七色と錯覚するように、自分と他人、人間と世界といった、この世の中のさまざまな事物を別の物と錯覚しているが、真実は、虹の色も各色の間に境界を引けないように、この世の中の全ての事物は、他から独立して存在しているものはなく(不二)、全ては相互に依存し合って存在しており(縁起)、永久不変の実体のあるものはない(空)、ということです。
  世界の中には、無限に多様なものが存在している(ように見える)が、本質的には、それらは全ては一体であるということであり、それはまさに虹の色のあり方と同じなのです。 さて、この全ての存在が、本質的に一体であるというのは、存在論的な一元性といいます。次に、全てのものが一つの根源から発生したという発
  生論的な一元性について考えてみましょう。 虹の発生?創造は、宇宙の発生?創造ともよく似ています。

  虹は、無限の色を含みますが、その全ては、太陽の白色光から別れ出たものです。太陽光がプリズムを通ると、無数の色の虹にスペクトル展開します。 一方、この宇宙の中には、無限なほどのさまざまなものが存在しますが、その全ては、ビッグ?バンという一つの出来事から、産み出されて別れ出たものです。 こうして虹も宇宙も双方とも、その源は一つ、元は一つであるということができます。

 

·ゾクチェンの虹の教え

  さらに、この二つの話し、仏教の教えと虹の性質の類似性と、宇宙の発生と虹の発生の類似性という二つの話しが、一つになるのが、チベット密教のゾクチェンの思想ではないか と思います。
  ゾクチェンには、虹の身体と呼ばれる高度な瞑想体験があります。その修行者は、虹は、自然現象として、人の外側にだけ見られるものではなく、人の内部、すなわち人の心にも存在していると考えています。
  その修行の体験者は、「現象の世界を突き破って、本然の心の輝き(リクパ)が、見開かれた修行者の眼前に、立ち上る虹、とびかう光滴、鮮やかな光のマンダラとしてたちあらわれる」と、その体験を書いています。
 さらに、ゾクチェンの修行者は、この世界の創造において、すなわち科学的に言えばビッグ?バンにおいて、この虹の光が現れていると考えているようです。
  上記の体験者は、「法身クンツサンポ......そこは全ての現われの滅した世界である......法身は微動だにせず......それ は光の輝きとなって報身の浄土に輝き出る」と語っています。
  ともかく、この世界の創造においても、虹色の光があって、この世界は、虹の光と共に創造され、今現在、虹の色が無限の如く無限の要素を含みつつも、本質的には虹の色の如く、それらは別々ではなく一体であるということでしょうか。
  なお、チベット以外でも、仏教文化圏では、虹を神聖な象徴とする文化があります。釈迦が、天上界から降りてきた際も、虹が関係したという信仰がありますし、仏教国のブータンでは、虹と聖者を結びつけて考えています。
  こうして虹の色は、多様なものが共存する平和の象徴であると共に、仏教的な一元的な思想?世界観の象徴としても優れていると思います。